音作りをしないで、音を作っている
私は理想の音を追求していて、
私は自分の音のイメージは確固たるものとして持っています。
しかし、理想の音を持っていながら、ある意味、音は作っていません。
理想の音の追求をしていて日々その創造に意欲を燃やしていますが、
私の音はある意味、個性的無個性です。
私の音としての個性はあるのですが、
それは、普遍性という枠を作るということで、
その理想を追求しています。
私は基本、主観的な意識ですが、主観に主観を重ねて、
多くの経験をしていくと、そのあ重なってきた経験値から
そのファクターが普遍性という枠を持ち始めるのです。
理想の音は大切なのですが、最終的には普遍性として
その枠におさまる必要があるのですね。
私は普遍性であるようで、主観性も持っています。
私は私の意識のなかで、主観と普遍を両方を意識し続けています。
音というものを音楽として基本、捉えていて、
しかし、ミュージカリティーとモニターを同時に分析し、
スピーカーから出てくる音をコントロールしています。
最終的な私の目標は、
ミュージカリティー(音楽性)とモニター(忠実再現)の再現の両方を狙っています。
ミュージカリティー優先では音は主観的なものとなり、
モニター優先では音は客観的なものとなります。
人を楽しませる音でなおかつ普遍性があり、
音楽的な芸術性に長けた音とは、
客観と主観、ミュージカリティーとモニター、
この2つの概念を同時に捉えて両立させる必要があるのです。
主観的な創造だけでは、個人の面白半分で、
オーディオは音楽という芸術を扱うのですから、
音楽家の誠実な音楽への熱烈な気持ちをリスナーに伝達する
宿命がありますから、主観的なだけのオーディオの創造というものは、
遊びなのです。音楽家が自分の人生をかけて表現した音楽という芸術を扱うのが
オーディオですから、個人の面白半分とか遊びではいけません。
個人の主観が優先した面白半分、お遊びで、音楽という芸術を扱う
オーディオというものが愛好されてはなりません。
面白半分で遊びたい気持ちもわからなくもないのですが、
しかし、もっと音楽という芸術がどのようなものであるか?
このことを考えると、オーディオに対する姿勢も考えてしまうものです。
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